NHK大河で「江戸時代の異才」にスポットが当たる…大発明家・平賀源内が獄中で迎えた”悲しい最期” 転落のきっかけは被害妄想で起こした殺人事件だった

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」で、主人公・蔦屋重三郎と関わる人物の一人が平賀源内だ。歴史作家の河合敦さんは「発明家や本草学者、戯作者など多彩な顔を持つ天才だった。重三郎とは、吉原遊廓の案内書『吉原細見』の発行を通じて親交があった」という――。

※本稿は、河合敦『蔦屋重三郎と吉原 蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

「平賀鳩渓(源内)肖像」(画像=木村黙老/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

幼少期から「天狗小僧」の異名

蔦屋版吉原細見『嗚呼御江戸』(安永3年)の序文は、福内鬼外が書いている。といってもわからないと思うが、この鬼外というのは、じつはかの有名な平賀源内の筆名なのだ。

有名なエレキテルの復元・興行は、それから2年後のことだが、すでに源内の名は、万能の天才として世の中に知れ渡っていた。物産会の主催や鉱山開発、洋画(西洋画)の指導を行い、さらには燃えない布である火浣布や寒暖計・歩数計・磁針器などを次々と発明し、世間をたびたび驚かせていた。

この平賀源内は、享保13年(1728)に高松藩の足軽の家に生まれた。幼いころから非常に聡明であり、12歳のとき、天神を描いた掛け軸に御神酒を供えると顔が赤くなる「おみき天神」と称するカラクリを発明し、天狗小僧の異名をとっている。

日本初の物産展示即売会を開く

父が没すると平賀家を継ぐが、どうしても学問で身を立てたいと思い立ち、27歳のとき妹・里与の婿養子に従弟の磯五郎を迎え、彼に平賀家を継がせて江戸へのぼった。そして、本草学者の田村藍水(元雄)に師事したのである。

神田に生まれた江戸っ子の藍水は、市井の町医者だったが、やがて本草学の世界へ進み、朝鮮人参の国産化や諸国の有用な物産調査などで業績をあげ、のちに幕府の医師となって二百石を給された人物だ。

本草学とは、薬用になる動植物や鉱物の形態や薬効、産地などを研究する学問である。

やがて源内は、師の藍水を主催者として宝暦7年(1757)に日本で初めての薬品会を開いた。いまでいえば、物産展示即売会である。これが大いに評判となり、源内は以後、自分が主催者となってたびたび薬品会を開くようになった。この噂が高松藩に届くと、宝暦9年、藩では源内を正式な藩士(四人扶持)として召し抱えたのである。

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ところが間もなく、別人がエレキテルを模造し、実験をマネするようになった。しかも、模造品をつくるのに手を貸していたのは、あろうことか、職人の弥七だったのである。

それだけではない。弥七は「源内がエレキテルをつくるのに資金が必要だ」とウソをついて、人びとから金を集めていたのだ。

これに激怒した源内は、すぐに弥七を町奉行所に訴えた。が、それからわずか1年後、源内は殺人を犯してしまう。

秋田屋(米屋)の息子・久五郎(異説あり)は、武家屋敷の工事を請け負うことになったが、たまたま請負額を知った源内が「俺ならずっと安くできる」と豪語し、半額以下の見積もり仕様書をつくった。

噂を耳にした久五郎は、真偽を確かめるために源内宅を訪れ、仕様書を見せてもらった。

すると、非の打ち所のない内容だった。感心した久五郎は、共同で武家屋敷の工事にあたろうと提案。喜んだ源内は酒を出し、久五郎と自宅で酒宴をはじめた。宴会は夜遅くまで続き、疲れ果てて二人ともその場で寝てしまった。

被害妄想で久五郎を殺してしまった

朝方、先に目を覚ました源内だが、手元にあったはずの仕様書や図面が見あたらないではないか。「さては、久五郎が盗んだにちがいない」、そう思いこんで横に寝ていた久五郎をたたき起こし、問いつめたのである。

いきなり起こされて言いがかりをつけられたので、久五郎もご機嫌斜めだ。だから源内に向かって「本当に盗んだとしても、誰がお前なんかに言うものか」と吐き捨てた。

この返答を聞いて頭に血が上った源内は、いきなり刀の鞘を払うと、久五郎の脳天めがけて白刃を振り下ろしたのだ。

写真=iStock.com/Elena Zinenko

※写真はイメージです

頭をかち割られて仰天した久五郎は、そのまま表に飛び出し逃げていった。

とどめを刺そうといったん外に出た源内だったが、「どうせあいつはまもなく息絶えるだろう。そうなれば、俺も死罪を免れぬ」と思い直し、自刃を決意して室内に戻った。

事実、まもなく久五郎は死去した。

かくして切腹前に屋内を整理していたところ、なんと、例の図面や仕様書が出てきたのである。つまり源内は、被害妄想から久五郎に濡れ衣を着せて殺してしまったわけだ。

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こうして武士となった32歳の源内だったが、高松藩にこき使われたり、藩士として束縛されるのがほとほと嫌になり、宝暦11年に藩籍を抜けたい(武士をやめたい)と藩庁に申し入れたが、なかなか応じてもらえなかった。

ようやく半年後に許可が出たが、離藩のさい「仕官御構い」という条件を飲まされた。これは、旧主家(高松藩)による再就職の禁止措置であった。つまり、幕府や他藩に仕官する道が絶たれてしまうのだ。

けれど、この頃の源内は、「他家に仕官せずとも、自分は学者としてやっていける」という自信を持っており、その条件を受け入れて士籍を離脱したのである。34歳のときのことであった。

以後は本草学の研究に没頭できるようになったらしく、宝暦13年、源内は中国の本草学の成果をもとに独自の視点を加えて『物類品隲』全六巻を刊行している。

あふれる文才があった源内は、同時に俗文学である戯作にも手を染めるようになった。そして同年冬、『根南志具佐ねなしぐさ』と『風流志道軒伝』の二作を立て続けに発表したところ、これが良く売れた。

とくに『根南志具佐』は3000部も売れたという。当時の平均の10倍近い売り上げといえる。歌舞伎役者の荻野八重桐が大川(隅田川)で舟遊びをしていたさい、転落して水死した。この事件から発想を得て、地獄を舞台に滑稽さや風刺にあふれた内容だった。

これに味を占めたのか、さらに源内は滑稽本の『風流志道軒伝』、『源氏大草紙』や『弓勢智勇湊』といった浄瑠璃の脚本、果ては禁止されている好色本『長枕褥合戦』なども手がけるようになった。

歴史的偉業を果たした後、何があったのか

安永8年(1779)12月、源内は死んだ。病死ではなく、牢死であった。人を殺めて牢獄に入り、獄中で息絶えたのである。

源内は重三郎の吉原細見『嗚呼御江戸』に序文を書いてから2年後、エレキテルの実験で世間の話題をさらっている。

エレキテルは、摩擦起電機ともいい、静電気を利用し、四角い箱から突き出た金属の二本のヒゲの間に放電を起こして人の病を治すとされたヨーロッパ製の医療器具のこと。

平賀源内のエレキテル(複製)(画像=Momotarou2012/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

源内は壊れたエレキテルを長崎で譲り受け、職人の弥七に細工をさせて7年もの歳月を費やし、安永5年にようやく復元に成功したのである。

そして、このオリジナル品をもとにいくつかエレキテルの複製品をつくり、それらを見世物にして金を稼ぎはじめた。エレキテルから電気や火花が出るとのことで評判となり、ついに大名家までもが源内に実演を所望するまでになった。

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ますます後悔した源内は短刀を抜いて腹を割こうとしたが、このとき知人の丈右衛門が止めに入ったので、自殺できずに入牢することになった。それにしても、あまりに感情にまかせた衝動的な行動だ。一説には、精神を病んでいたのではないかといわれている。

源内の出身藩(高松藩)で後に家老となった木村黙老は、その随筆『聞くままの記』で、晩年における源内の異常な言動に触れている。

同書には、源内は引っ越し好きで生涯に十数回転居したが、盲人(神山検校)の旧宅に移って半年後に精神的に不安定になって殺人に及んだと記されている。

この神山検校は、あくどい金貸しで悪事を働いて野垂れ死んだ。死後は毎夜、自分の屋敷に幽霊となって現れ「ここにあったのに、見当たらない。見当たらない」と新住人に金のありかを尋ねるとのもっぱらの噂だった。

だから検校の旧宅は人が住まなくなり、空き家になってからも久しく売れなかったので、売り値が安くなった。それを知った源内は、人が諫めるのを聞かず、家を買ったのである。

一説によれば、神山検校の旧宅に移った頃のこと、弟子の森島中良が共同で脚本を書いた人形浄瑠璃『白井権八幡随長兵衛驪山比翼塚』が大当たりした。普通なら師匠として弟子の成功を褒めてやるべきなのに、源内は自分の作品が不人気だったことに腹を立て、なんと中良のもとに押しかけ、罵詈雑言を浴びせたという。

獄中で50年余りの生涯を閉じた

中良は幕府の奥医師・桂川家に生まれたボンボンで、兄の甫周は『解体新書』の翻訳にも参加した有名な蘭学者で、漂流してロシアから戻ってきた大黒屋光太夫の聞き取り調査をおこない『北槎聞略』としてまとめ、将軍家斉に献上した人物だ。

河合敦『蔦屋重三郎と吉原 蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実』(朝日新聞出版)

幽霊のせいか、中良を叱りつけた10日後の安永8年(1779)11月21日、とうとう源内は殺人を犯してしまったのである。

入牢した源内は、翌月の12月18日、喧嘩のさいについた傷口からばい菌が入った(破傷風か)とされ、体調を崩して獄中で死んでしまった。一説には、殺人を犯したことを悔いて絶食して死んだともいう。享年51歳であった。

遺骸は、妹の夫で従弟にあたる平賀権太夫らが引き取り、浅草の総泉寺に埋葬された。その後、総泉寺は他所へ移ったが、源内の墓石は同地にあり、昭和3(1928)年に墓石の下から源内の遺骨を納めたと思われる骨壺も発見されている。

ちなみに蔦屋版吉原細見の序文は、源内の後を引き継ぎ、戯作者の朋誠堂喜三二が書くようになった。

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